日本キリスト教団(日本基督教団) 芦屋西教会 公式サイト。兵庫県芦屋市のプロテスタント教会。

壮年会発題コメント

2019年度 壮年会発題コメント ・文責 黒岩 裕二 】

2020年1月26日
壮年会例会 テーマ 「ファクトフルネス」
発題者 藤田 英機
ファクトフルネスとは、データや事実にもとづき、世界を読み解く習慣。賢い人ほどとらわれる10の思い込みから解放されれば、癒され、世界を正しく見るスキルが身につく。世界を正しく見る、誰もが身につけておくべき習慣でありスキル、「ファクトフルネス」を解説していただきました。13の質問は、大半の人は正解率が3分の1以下で、ランダムに答えるチンパンジーよりも正解できない。専門家、学歴が高い人、社会的な地位がある人ほど正解率が低いとの結果がでている。例会に出席されたかたもチンパンジーよりも正解できなかったようです。その理由は、10の本能が引き起こす思い込みにとらわれてしまっている。それは、分析本能・ネガティブ本能・直線本能・恐怖本能・過大視本能・パターン化本能・宿命本能・単純化本能・犯人探し本能・焦り本能である。「ファクトフルネス」を日常に取り入れていくことで、そうした思い込みから脱して事実に基づく世界の見方ができるようになる。判断力が上がり、何を恐れ、何に希望を持てばいいのかを見極められるようになるというお話でした。
                                               
2019年11月24日
遠藤周作「早年と晩年の生きざま 」そして「死について考える」
発題者 黒岩 裕二
遠藤周作氏は、10歳から6年間夙川で過ごした。当時、母の影響でカトリック夙川教会の主任司祭長田辰之助神父より洗礼を受けた。受けたというよりは、受けさせられたと言った方が正確である。ミサは退屈で母の言いつけで祈ったふりをしていた。教会は遊び場であった。奇声を発したり、キャッチボールをしていて、窓ガラスを割るぐらいは序の口。聖堂のカリヨンを勝手に打ち鳴らす悪がきであった。3代目のメルシェ神父から悪さをして、叱られていたが、神父の慈悲あふれる場面も色々とみていたようである。後年の話であるが、父のように慕っていたヘルツォーク神父が1957年に突然疾走し還俗したことに大きなショックを受けた。この2人の神父の影響が「棄教」・「背信」・「赦し」という遠藤文学の大きな柱となったと思われる。その結実のひとつが、名作の「沈黙」である。最後に晩年の「こころあたたかな医療」遠藤ボランティアグループについて話をさせていただいた。
                                              
2019年9月22日
日本人とユダヤ人は、共通の祖先?
発題者 五十嵐 政二
西宮市の紋章(市章)はイスラエルの紋章と同じ六亡星が描かれています。写真を見せていただくと納得です。これは伊勢神宮にも蘇民将来の祭りのある神宮でも使われているとのことです。また、八咫鏡(ヤタノカガミ)とは三種の神器として皇室に伝えられる宝鏡です。明神時代に、八咫鏡を見たという人が複数人現れ、それらの人が八咫鏡の裏にはヘブライ語が記してあったと主張し話題になりました(明治天皇も見た一人)。明治期に、日ユ同祖論:日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。また、スコットランド人により日本の皇室とユダヤ人がつながっていると発表されました。その他にも、色々な事柄を話していただきました。このような常識では考えられない事柄を一蹴しないで、興味を持つことが大切だと思います。最後にパリ行かれた時、立ち寄られた、最も美しいステンドグラス「サントシャペル」の写真を見せていただきました。
                                               
 2019年7月28日
「2020バザー」を語る     
発題者 バザー委員長 長瀬 信博

「1.ニュージェネレーション2.すべての人々を繋ぐ3.いままでの物の販売から人々、教会員との交わりを深める」とのコンセプトを話された。特に、2.の「繋ぐ」とは、物ではなく人々の関係を繋ぐことに重点をおかれています。今までとは、一味、二味違った斬新的な発想です。その内容とは、次の3点です。1)若者主体部門:①フリーマーケットの拡大②ゴスペル2)中高年主体部門;①映画会②ジャズバンド3)食事部門:バイキング形式・赤飯販売。ここで注目したいのは、1)若者主体です。長瀬さんは、数人の若者(教会員)に声をかけ、すでに下準備をなさっています。しかしながら、初めての試みなので、じっくりと時間をかけての準備が必要です。早ければ、来年の秋の開催を目指しています。道筋ができましたら、私たちも心を一つにして、若者と共に取り組んでいきたいと思います。

2019年5月26日
‘18年12月発行の「聖書・聖書協会共同訳」の紹介
発題者 谷 義紀
聖書協会発行の聖書における変遷の話をなさった後、聖書協会が強調する「共同訳聖書」の特長に話が移りました。①礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳②聖書協会訳として初めて聖書全体に引照と注を付す③固有名詞、書名は「聖書新共同訳」に準拠等です。そこで、現行の聖書と比べて、谷氏個人の印象は次のとおりです。①発売当初は、B6版のみで旧約の続編有無の2種類のみ②各頁に引照、注を付けているために当然字が小さい③引照も参考になり、注も直訳・別訳など記してあり興味深い④頁No.は同じではない⑤旧約:計1,502→1,478頁、新約:計480→467頁で僅かに少なくなっている⑥小見出し(ゴチック体)は付いている。但し、多少一部の語句を変えている。最後に谷氏の所見として、『「聖書には何がかかれているのか」「私たちに何を語り伝えているのか?」これは、私たちが聖書の言葉に接するとき、絶えず頭にあることである。その書かれた時代や作者などの背景、及び多くの国の言葉に如何に翻訳をされてきたのかを学ぶことは聖書理解に大切ことであると考えたい。』
                                              



2018年度 壮年会発題コメント・文責 黒岩 裕二

2018年5月27日
キリスト教と音楽史
発題者 宇賀 弘

キリスト教の母体となったユダヤ教の時代から音楽は、信仰・礼拝と深く結びついていた。偶像礼拝や自然崇拝を否定するユダヤ教徒は、音楽に不思議な霊力を感じていたようである。また、イエスの時代も最後の晩餐の後、イエスと弟子達が「①讃美を歌ってからオリブ山に出かけた。②詩編と賛歌と霊的な歌によって感謝して心から神を誉めたたえなさい。」などと新訳聖書に記載されており、歌と深く結びついていたと思われる。しかし、初期教会の聖歌はどのようなものであったかの資料は断片的なものしかなく全体像は不明である。興味深かったのは、グレゴリア聖歌でグレゴリウス一世の作曲ではないが、これが「グレゴリ聖歌」または「グレゴリウス聖歌」と呼ばれ、曲は単旋律・アカペラ(無伴奏)で五線譜ではなく四線譜、音符は四角であったということである。その他、「中世聖歌のその後」・「多声音楽の聖歌」・「史上初の通作ミサ曲」等、色々お話しをされた。お話の合間にCDにてミサ曲を聴かせていただいた。心に残る曲であった。                            
 
2018年7月22日
「イスラム教とムスリム」
発題者 鵜飼 卓さん

イスラム教は、神がムハンマドを通じて人々に下したとされるコーランの教えを信じ従う一神教である。また、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同志の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。そして、ムスリムとはイスラム教に帰依する者(イスラム教徒)の意味である」とプロジェクターを随所に用い、お話をされた。そして最後に個人的感想として、キリスト教との相違点について、次のように話された。キリスト教は、イエスの十字架上の死と復活によって、人間と神の「仲介者」として、無限の「愛」を伝える役割を果たしている。それに対して、イスラム教は、「神と人」との直接の対話(礼拝・祈り)を強調している。「父と子と聖霊」という難解な三位一体の概念がなく、生活上のこまごましたことまでクルアーンやハディースの中に指示がくだされているので信者にとってわかりやすい宗教であると締めくくられた。


2018年9月23日
太宰 治「駆込み訴え」及び人物像 
発題者 黒岩 裕二

太宰は、芥川をキリストのように妄信していた。芥川が「西方の人」を発表したように、自分もキリスト教をテーマにした文学作品を書きたいと熱望した。それがイエスを売り渡したユダをテーマにした「駆込み訴え」である。
この作品は、ユダがイエスに対してどのような感情をもっていたのか述べる形式をとっている。「イエスは美しい、愛してる。だからイエスために頑張る。でも自分を顧みてくれない。頭にくる。殺す」と内容は、愛憎表現のオンパレードである。ユダを自分にみたて、生き様を描いているように思える。太宰は、聖書のユダの裏切りを題材にして、これほど大きくこの作品を膨らませることができたのであろうか。恐ろしくも感じる。そこが最高傑作と言われる所以であろうか。思うに、キリスト者としてユダはともかくイエスの表現には不快感を覚えたが、心に残る作品であることは、否めない。


2018年11月25日
キリスト者と権威者
発題者 大野 至 神学生

同氏が修士論文として選んだ題材は、ローマ人への手紙第13章1節から7節の箇所である。この箇所を字面だけで読めば、世俗の権威を神の権威と考え、批判もせず全て従いなさいと勧めているように私には思えた。しかし、説明が進むにつれて、それが間違いであることに気づいた。とは言うものの、この題材は奥が深く難解で難しい。同氏は次のように結論づけた。『つまり、当該箇所におけるパウロ主張の真意は、ローマ住民であるキリスト者が受動的な理由からのみ権威に従うのではなく、教会内の人々に対してだけではなく、権威者をはじめとしたローマ社会の人々へ自発的に隣人愛を根拠とした住民的善行を実践していくことだと考え得る。パウロはどのような状況下であっても、隣人愛を基盤とした善行を実践していくことをここで求めているのだろう。』論文の最終提出期限は来年の1月とのことである。推敲を重ね、修士論文を脱稿したら是非読ませていただきたい。こう思うのは、私だけであろうか。


2019年1月27日
「 芦屋西教会はどこへ行くのか 」
副題 生っかじりの神学と経営学を踏まえて 
発題社者 島田 恒

1.世界の宗教2.ミッシオ・デイ(神の宣教)3.教会の役割4.教会活動の経営学5.伝道・奉仕のための着眼6.共同体形成のための着眼と項目ごとにお話しをしていただきました。各項目について、語り尽くせないと思われましたが、そこはプロ、わかりやすくお話をしていただきました。当教会における項目「5. 伝道・奉仕のための着眼」は、次回、もう一度、語り合う機会があればと切に思いました。
同氏は、好んで教会活動において「経営学」との言葉を多用されます。(項目4.)「経営学」という言葉に対し、私だけではなく、違和感を抱いた方がいると思われます。その点を捕え、同氏が言われるには、「誤解を招いています。経営とは、組織がどう進むべきかを整理して方向を決める知恵」とのことでした。なるほど、教会における「経営」とは、そのような解釈の仕方があるのかと思いました。今回、初めての試みがありました。当教会においての「活動の具体案」というアンケートがありました。みなさん、鉛筆を走らせ、熱心に書かれていました。結果は同氏から役員会に提出され、みなさんに講評されます。楽しみにしてください。                                                     

2019年1月27日
パウロの足跡を訪ねて(ギリシャ)
発題者 加輪上 敏彦

同氏がギリシャにて、「パウロの足跡」を訪れた時のお話でした。通常の観光地巡りではなく、マニアックな方々の旅のようでした。凡人には、やや難解に思えましたが、訪問地の写真を取りいれ、わかり易く説明してくださったので、とても良かったと思います。足跡の所々に当時の遺跡等が残っていると思いましたが、ピリピ・コリント・ペラの遺跡が徹底的に破壊されていると聞かされ、残念に思いました。興味深かったのは、ギリシャ人は、パウロが伝道に手こずったように、賢く狡猾で、キリスト教が入ったのちも、巧みに元あった宗教を取り入れました。そして、ギリシャ人は、独自のギリシャ正教をカトリック、イスラム教から守り、独自の宗教としているそうです。また、現在において、ECから財政改革を迫られていますが、独自の考えを譲らない奥の深い国で、人々もなかなか一筋ではいかないようです。でも、同氏はもう一度行きたい魅力ある国と締めくくられました。